誰に呼ばれていた名前なのだろうと思う。少女のそれについて。
蝶の名前
いつだったか捕まえてやった蝶や蛾の、展翅された羽を毟っては本に挟む、を繰り返して口もきかない。
ピンさえ外せば標本箱からふたたび飛びたとうとして、かれらは羽化したてのようにひらりと羽を瞬かせる。まるで本当に生きているみたいに。こんな光景は〈外〉ではお目にかかれない。
これらの生き物はすべて触れられるただの映像に過ぎない。たとえこの子の指先を汚して偏光する鱗粉の一粒が、どれほど繊細に見えたとしても。
栞をつくるつもりだという。
だけどこの子は、きっと覚えていられないだろうな。
疑問というより簡潔な好奇だった。少女の、この奔放な野性(それはたとえば純粋と暴虐の両立)を、そのように至らしめた環境を鑑みて、言葉さえ教えられなかったこどもに名前なんてまさしく分類の象徴が果たして用意されていたのだろうか、ということについて。
この場所ははじめから廃墟を模してつくられたように見えた。白亜の壁に白い蔦が絡まりあって同化し、塔は朽ちて、けれどそこに不完全なのではなくそれで完全なのだと感じられる舞台美術めいた気配があった。ドーム型の夜天には目にしたことのない星座が浮かびあがった。あちこちにある時計の針は役目を放棄したのかあるいははじめから与えられなかったのか、めいめい気まぐれな場所を示し、植物や生物はよく見れば〈外〉のものと細部が異なっていた。ありそうで存在しないもの、質量をもつ夢。箱庭めいたここでたったひとりこの子を見出したとき、その在り方からは庇護のにおいなんかしないで、きっと生きてきただろう時間に比較してあまりに言葉が足りなかった。
「そのページはもう一杯じゃないかな」
声をかけるとやっと手をとめる。はじめてこちらに気がついたみたいに。だけどそれさえ億劫に、覗き込む顔を緩慢な動作で振り返る。
「いたの」
「その標本箱を取って来たのが誰か忘れた?」
「まだいたの、って意味」
いまだってまだどこか舌ったらずで異国の言葉のようにぎこちない。たぶん一生(この子がいつまで生きるかを想像したことはない)、そうだろう。
「手伝ってよ」
「いいけど、手伝ったらすぐ終わってしまうよ。それから君はまた新しい遊びを見つけなきゃいけない」
「じゃあ」
少女の、ゆるりと伸びた手が俺の横髪を捕まえる。引っ張るように無遠慮に。無遠慮?そもそも遠慮を教えていなかったんだっけ。
「退屈を潰してよ」
覗き込む好戦的な瞳、引き攣るように見開かれたあとやわらかな笑みのかたちをつくって、ああほんとに螺子がたりない、その一瞬の視線の接続がすべてを諒解させた。
この、無垢はどうだ。
おもちゃをねだるこどもに似ていながらこの子のほうがこわれた玩具になりたがっている。鱗粉で汚れて指先はきらきら光っていた。ホログラム。君まで映像のにせものみたいだ。
口付けるほど甘美は求めない。けものの食事に似ている。心許ないほどやわくおさない首筋を舌でなぞる。紫斑。いつつけた傷だろう。拇指で推してやると吃音が漏れた。青い血管を食みながら肩に埋めた視線の向こうに、羽のない蝶だったもの、が転がっている。
「……ああいうことして、かわいそうだとか痛そうだとか思わないの?」
尋ねると、自嘲とも冷笑とも取れない声色で少女は答えた。
「そんなこと思わないだろ、おまえだって。」
じゃなきゃこんなことしない、と呟くのは彼らをばらばらにした自身の指先に対してじゃなくいま首筋を傷付けるこの拇指や犬歯に向けてかもしれない。あるいは両方。言葉を知らなかったこども、だけどこういう合図を平気で使う。ひとつもけがれなく受け入れる。こんなこと、の先をちゃんと分かっている聡さで、だけれどそこに意味を見出せるほど成熟していないのは心もからだもそうだ。遊びのひとつ。聖性さえまとった白い肌と廃人みたいな完璧な笑顔。泣き方だけを知らない。
「庭へ返さなくていいの?まだ羽のあるのもいるだろう」
「どうせあの庭だって偽物だもの。あいつら、どこへも行けない」
世界や自分がにせものだってわかっていたら蝶になんかならずに蛹のままのはずだったね、と少女はいう。未来があったってからだが成長したってこの子が持っているのは退屈に伸びた時間だけで、ゆける場所のすべてが贋物だって知っていてそれでもいつかおとなになることの無意味をわらう。そうやって連れ出して欲しがりながら、そうしてくれないことを恨みながら、だけど安心しているんだろ。病巣みたいな世界に浸かるあいだだけ無垢でいられることをもう分かっているんだろう。矛盾律だけがいまはこの子をこの子たらしめている。
もしかしたら名前なんかなかったのかもしれない。言い間違いか聞き間違いか自分がつけたのか俺が呼んだのかそれさえもう分からない。だけれど口にすると笑うから、きっとそれだけがこの子をまだひとに引き留めるピンなんだろう。どこへも行けないくせにどこかふらりと飛んでいってしまうような気がする。
結局残っていた標本の蝶はみんな逃がしてやった。どこへも行けないこどもがきらきらとひかる鱗粉の群れを見つめて、贋物の空を飛ぶかれらのうつくしさを、だけれど嗤っているようになんか見えなかったよ。
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