――そうしたいくつもの断片たちをきちんと並べようとするなら、僕は混乱するだろう。

 

 

 

 記憶をうまくあやつれない。はっきりしているのは、たとえば彼と赤い花と鋏のこと、それがたぶんいまよりずっと幼いころの出来事だったのだろう、ということくらいだ。たぶん、という補足がつくものを、”はっきりしているのは”と表現して赦されるのならば。だけどそういった、いったい過去のどのあたりに属するかを推定できる断片というのは、僕にとってはどうしようもなく眩しく奇跡めいた存在だった。そういう断片は特別だ。たいてい幼いころのもので、それ同士の順序を正しくならべかえることはやっぱりできないのだけれど、それでじゅうぶんだった。

  ほとんどの断片たちが過去のどこへ嵌るものか、僕には見当もつかないのだから。

そう。

「断片たち」だ。

  分節化され、接続が断たれ、めいめいに散らばった無数の星のような。

 それは記憶でさえない――

 

 それは記憶でさえない、エフェメラだ。

 

  記憶が標本であるのなら、それにつけられるはずの時間のラヴェルを記述して呼び出す機構が、僕はこわれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を歩いている。

 これはたとえでもあるし、事実でもある。いまこのからだは眠っている、という点においては。

 めざめたら消えてしまう夢の主体とは、いったい何者だろう、とぼんやりした頭で考える。きっととても無駄なこと。どうせまた忘れてしまうんだから。

 茫漠と広がる白い湫。

 僕の夢のイメージは、そうだ。

 そして、

 繭と、

 扉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕を内側からひらこうとするものは、静かな竜巻のにおいがする。逆巻き蠢く見えない嵐は扉の向こうで僕の崩落を不気味なほど静かに待っている。

 

  何がはじまりだったかを、そのディテールを、思いだせない。いつからか扉の向こうに、僕の知らない領域が横たわっている。知らないことになっている、と糺すべきかもしれない。僕の意識にはあちこちに規制がかかってあまり使いものにならないから。すこしでもそこへ近づいてしまうと、つうっと背すじを氷がすべっていくような感覚がはしって、それはしなやかな指のように、そのまま僕自身のほつれを見付けだす。〈ほどかれ〉そうになる。〈ほどかれる〉、比喩でありながらそれはおそろしいほど現実的なイメージの洪水となって僕をおそった。(〈僕をほどかないで!〉)ぞわぞわとした、快楽を一歩手前に粟立ちだけをのこすようなその感覚が僕をそこへ近づけさせなかった。 

 

 僕の知らない領域がある。それはたしかに――そのおびえこそが、均衡を保っているために僕が僕自身に虚構とそれを支える虚構とを累ねつづけたことの証明なんだろう。僕のこころはそういった、嘘で綯われた繊細な繭だった。繊維のように絡まりあい、干渉しあい、一本の糸となって、もう何がほんとうで何が嘘だったか分からなくなっている。だけれど糸口を見つければ繭それ自体をほどくことはきっとかんたんで、あまりにもろく、だからこそ意識のすみずみにまではりめぐらされた拒絶と警告とは強固だった。〈ほどく〉だの(ほどかれる)だのというイメージは、そのような繭のイメージに依っているのだろう。そうだ、こんなふうに記憶もあるひとつに依存して他の記憶がひきだされ、接続され、それを繰り返して自我を編んでいくのだとすれば、記憶の整理のできない僕のそれが稠密なものでないのは当然だった。それに、と僕は思う。はじまりの記憶がすでに上書きされた虚構かもしれないのに、そのうえになりたつ、いまここにいる僕とはいったいなんだろう?

 

 はじまりを思い出せない。それはほんとうに自己のはじまりという意味でも、虚構のはじまりという意味でもそうだ。

 

 「僕」を見いだしたときにはもう、僕は虚構でできていた。というより、そのように自覚する僕が、いってしまえばいま与えられている「はじめの自我ぼく」だったということだ。このからだのなかにそれより以前の僕が覆い隠している(のだろう)領域がきっとある、とおびえている僕がすでにそこにいた。未整理で断片的で鮮烈な記憶の成りそこないたちのひとつひとつに、静かであざやかなおびえの感情が綴じ込まれている。ばらばらの断片はおびえを共通点としてなんとかつながっている。星座のように。

 

 ざわめく気配が僕の内側をひらこうとする。

 

 繭の中にたつ扉の向こうで、無音の嵐が僕をみはっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗転。

 果実の皮をむくように、花が開くように、夢の中にひとつの断片が再生される。

 たくさんの感情の群れをともなって押し寄せる。

 声が、聞こえる。

 あのひとの声が。

 

 

 

 

 

  ……ひとに起こる事実は時系列にしたがって何十億もの層をなし、そのうえで膨大な事実のプレパラートは取捨選択され、いらないものは廃棄され、必要と判断されたものは個をふちどる構成員としてつねに稼働している。それが記憶なのだと、彼は教える。ひきだしにしまわれていてもいつだって待機状態にあって、記憶はひとまとまりの人格と現在とを、個の境界を縁どってくれる。自我は<同時に存在する物語>、一冊の本のようなものなのかもしれない。

 

 すこし、むずかしいかな。言葉をきった彼のうねる銀の髪がさらりと揺れて、その隙間から赤い瞳がのぞいた。スローモーションのこの瞬間とせりふとを、僕は知っている。

 

 これは、僕の記憶のひとつのシーン。

 

 だけれど、それがいつのことだったかというラヴェルを、僕は引き出せない。そこから先へは進めない。一度経験したはずの景色や事象が、目の前にありありと展開されてしまうだけで。干渉できないことでそれが過去だということだけ認識したまま、それでも一時的に感情がひきずられていく。どこか違和感を抱えて、過去の僕自身にはなれないままに。

 目次のない、本になれない、ぐちゃぐちゃに配置された文章。

 僕はときどきこうしていつかの夢を見ている。

 「いつか」を思い出せないまま。

「だからね、事実それ自体は層であっても、記憶は層であって必ずしも層じゃないのかもしれない。あらゆる時間の記憶は、時間と言うラヴェルをきちんともちながら、そのひとそのものとしてつねに動員されていて、同時刻に存在する権利をあたえられているのかも。からだがしぬまでね」

 そうだ、と彼は思いついたように僕を見るだろう。思考が先か、質感が先か、どっちだと思う、と彼は問うだろう。そしてそのとおりになった。彼のひとみはあわい微笑のかたちをつくる。僕はその弧をうつくしいと思う。慣れることはなかった。次にこう言うだろう、と予測したとおりの唇のうごきを、あまりにも滑らかに彼がしてみせるということ。僕は彼自身にさえなった心地だった。僕自身にはけっしてなれないというのに。

「記憶や経験に基づいてじぶんの〈外側〉を取り込むのだとすれば、思考が先にあって、外界を処理するのかもしれない。だけれど、その記憶や経験は外側の、質感からやってくる。……やっぱりこの話はむずかしい?」

 その話にだって興味がないわけではなかったのだと思う。だけどそれよりもずっと、彼の流暢な唇の動きを、澄んだひとつながりの水のような文章そのものを、からだじゅうで追いかけることに集中していた。だからときどき相槌をわすれてしまう。それをきっと彼だって知っているけれど、そのうえでこんなふうにもどかしく言葉をきって、問いかけてみせるのだ。

「でも、そもそも事実を、いるとかいらないとかでえらんだり、すてたりする基準それ自体は、いったいなんなの。ほんとうは記憶なんかじゃなくて、記憶というのは装飾で、最初からそなわったその機構でもうぜんぶ決まっているんじゃないの」

 聞いていなかったわけではないということ、そしてすこしの反抗と、半分は純粋な関心をこめて僕は彼を見やる(正確には、見やって“いた”)。これは僕たちの会話の雛形だ。それは続きを促す記号でもあった。

 

「そうか。そう考えることもできるね。白紙に記録されていった記憶、それが個を定義づけるのじゃなくて、最初に書かれたテクストにしたがって記憶している、その最初のテクスト、機構こそが、そのひとそのものなのかもしれないね。」

 

 記憶は装飾、と彼は言葉をきって頷いた。口に出したあと僕は自分でたしかにそうかもしれない、とおもった(というのは「今の」僕の感想で、そのときの僕は口をつぐんでいるだけだ)。いくつものテクストで織りなす命令系統のなめらかな下地があってはじめて、記憶は記憶として機能するのじゃないだろうか。記憶は順序良くならべられてやっと動き出す、よりじぶんをじぶんめいてデザインするための、それはアクセサリなんじゃないのだろうか。

 

「でも、テクストがひと自身だなんて、それじゃ××みたいだ」

 

(僕はそのときなんて言ったのだろう。そこは靄がかかって、ていねいに修正されている。たぶん、それは僕を〈ほどいてしまう〉糸口につながっているんだ、とおもう。ぞくりとした感触。)

 

「…… “こう“でなければ、君はきっととても賢いんだろうね」

 

 だまりこんだ僕をみつめて、そのひとはやわらかに微笑む。今が賢くないってわけじゃないんだけど、と笑う。「君はほんとうに気分屋だから」と。

 

 こうでなければ……彼は僕のその機構がこわれていると知っている。最初のテクストをなくしてしまったのは、僕だ。きっと、それをこわして忘れ去ったことで、僕の安寧はかつてまもられ、それがずっとつづいているのだ。いまも。僕の記憶は断片的で、それがいつのことだったかというラベルをうまく引き出せないものがほとんどだといったけれど、彼の説明を借りるなら、それは記憶でさえないのかもしれない。膨大な事実のプレパラート……散らかった机の上の、ずっと整理されないプレパラートのようなもの。とぎれとぎれの、感情を強制的に引き起こすテクスチャ群をもつ、ただそれだけの、エフェメラ。ときどき、それはまさにそこで起こっているかのように目の前に広がっては、あっけなく集束し消滅する。

  点在するおぼろげな断片をかき集めてかろうじて今をつくっている。感受性は揺れ動き、質感をうまくとらえられない……輪郭がない。気分屋、とはそういうことだ。情緒の発現が安定しないということの言い換え。君はさわれない、と彼は喩える。きみの境界はさわれない。

 

「さわれないことなんかないよ。今も」

 

 だから、僕は彼に触れてもらってたしかめる。

 

 そのためのテクストを紡ぎだす。

 唇から滑り出たことばは、ほとんど挑発だ。記号。そうだ、これもテクスト。僕たちの関係図を示すための。僕とこのひとはこころなんかで通じ合わない。演算された巧緻な文脈を交換し合って、うわべをなぞってゆくだけだ。

 だって僕の境界はこころにはないんだろ。

 それは、(だけど、” ここ”にだけはあるよ)、という意味だってはらんでいる。

 ことばにしないで記述する。埋め込んでゆく。大気に。文脈に。会話のはしばしに。二重の旋律をつくってゆく。そうして彼はいつだってそれを正確に読み解いてくれる。

 僕は彼に触れてもらってたしかめる。

 瞳だけで諒解しあって、やがて彼の指先が僕の地図をなぞるだろう。呼吸を分け合っては重ねてゆくだろう。彼の犬歯が僕の肩や鎖骨に傷をつくり、ぷっくりとした柘榴のような滴が浮んでは伝ってゆくだろう。この先なら、わかる。粟立つような、〈ほどかれる〉ような感覚の、快感とわずかな痛みだけを引き延ばした感覚だ。

 僕は彼に依ってようやくひとときだけ、いま、ここに僕というものがたしかにあるとたしかめられる気がしていた。

 

 

 

 

 暗転。

 ゆっくりと僕は断片のなかからひきはがされていく。

 だけれど目覚めにはまだ遠い。

 白濁した霞の中で微睡んでいる。

 

 

 

 

 茫漠とした白い空間。

 夢の最初のイメージ。

 そこへつれもどされたのだ、と視認する。

 鮮明でない意識のなかに(もっとも夢の中だから当然なのだが)、それから、彼の言葉が降るように再生されていた。

“記憶は、ひきだしにしまわれていても、いつだって待機状態にある……”

 待機状態。

 それは、いつも「ここ」にあるということだろうか?

 僕の頭の中で、僕を見ているということだろうか?

 ざわざわとした感触が、どこまでも静かなままで、意識のなかを掻き回してゆく。

 僕を内側から剖こうとするものは、静かな竜巻のにおいがする。逆巻き蠢く見えない 嵐は扉の向こうで僕の崩落を不気味なほど静かに待っている。

 扉。

〈扉の向こうに、気配が、ある。〉

 そう感じるのと同時に、もうここにそれは出現していた。

 ひやりとした冷気といっしょに。

 扉。それも繭とおなじように、イメージだ。繭の中に、忘れてしまうことを決めた(のだろう)何かの隠蔽のために建てられてきた扉。僕を傷つけるものとして排除された僕と、その記憶が棲む小部屋。内側から、いつも僕を見張っている……

 それは目を開けているあいだ考える途方もないただの想像だったが、夢は忠実にそのイメージを再現してみせた。それは僕を、ぐるりと円形に、息を呑むほどの潔癖さで整列した扉がどこまでもどこまでも続いている――そのような光景として表象された。景色は果てなく白く、そこへ立つ扉のすべてが無菌の清潔さを持つ同じ白をまとっている。

 ここは、繭の中は、とても静かだ。

 音を立てるものはどこにもない。

 沈黙する扉はけれど詰るような目をしている、と思った。息をすることもゆるさない。一度そう見えたならそれきりだった。どこへ視線をやっても、僕によって隠された僕たちが、あの向こうでじっと瞶(みつ)めている気がして、硬質で透き亨った無音にじっとりと汗ばむような心地がした。耳殻の奥でばくばくと心臓の拍動のボリュウムがあがる……ここにからだなんかないくせに、からだの音まで引用してくるとは、夢ってなんてべんりなんだろう。この夢は僕を裁き、復讐し、そして無意識の奥底へ閉じ込められた「僕たち」を救うための舞台なのだろうか。

 そしてごていねいに、<それらの気配に蚕食されている>という、ずっと感じていながら気づかないふりをしてきた感覚までもここは具現化してみせる。静かな嵐のように、僕を見張る幾千の扉とその向こうへ追いやったなにものかの生み出すざわめきとが、ありあまる時間のなかでじっくりと確実に繭の容量を食いつぶし、うめてゆく、というイメージとなって。嵐と形容したけれど、それに色もかたちもなかった。象ることのない「気配」に僕がつけた名前のことだ。渦巻きあるいはゆらめく透明のもの――記憶と意識の気配が、奔流というにはあまりにもひそやかにやってくる。開いてはいない扉の向こうから。何重もの指さきで触れるように感触も質感も質量もない、亡霊のような姿のない概念が、絡みつきまとわりつき撫でまわし、すみずみを解析して僕の意識は溶けあうように撹拌される。意思はゆるやかに窒息してゆく。心臓の音だけはうるさいのに、空を掻いても腕はなく、膝を折っても脚はない。声をあげるための咽喉もない。これは僕の内側だ。窓をもたない、一個のからだという宇宙の中でこの嵐はまぎれもなく僕自身で、蚕食されてゆくのだって僕でしかない。

 だから、それは僕の、繭の内側からほころびを知り尽くして、的確に捜し当てる。

〈ほどかれる!〉

 途端に恐怖が支配した。

 こんな夢をみせたっていまさらもうどうしようもないのに!

 僕のこころはもはや嘘と秘密とで綯われた繭として完成された未完成なのだから、 ほどいてしまえば――

 するすると「僕」がほどけたさきには、

 

(からっぽの、そこに無だけが残る)。

 

 叫びだしたくなった。そのイメージの強迫こそが僕をまもっているのは知っている。潔白の無知でいる代償は、けして知へ近づかない神経質な敏さだ。何かを思いだせないでいることの安寧にまもられているために、糸を張ってつねにどこか尖らせておかないといけない。無知のために完璧な無知ではいられない。だから繭のイメージも<ほどかれる恐怖>も、より深層へ近づけさせないための、僕を守るためにうみだされたツールだ。恐怖で恐怖を劃すための。

 だけどそれだってきっと僕を蝕むものにはかわりなかった。〈ほどけていく繭と無〉が隠していることにさえ無知でいるためにつくられた強迫観念であるなら、〈扉の向うの視線〉という嵐は、知らないでいることへの不安定さとおびえとが引き起こしたもうひとつの強迫観念だった。相反するはずのふたつのイメージはいつのまにかまざりあって僕へと浸透し、内側からあまりにも静謐に、僕をあやめようとしている。

 どこへも逃げられない。

 すべては僕の中で起こっている。

 声のようなものだけが響いてくる。

 しずかな、声にも満たない透明なざわめきが。

(このまま、きっと使いものにならなくなっちゃうよね)

(自分も知らない何かにおびえ続けては)

(でも覗き込む勇気もないんだ)

(いまのきみでいられない予感があるから)

(だから、僕たちが〈ほどいて〉あげる)

(きみをほどいてわからせてあげる)

(何も思い出せなくていい)

(ただ今こうあるきみについて、たったひとつの事実をおしえてあげる)

(それは)

(いまさら何をどうしたってしかたがないってこと)

(きみが何者なのかを)

(きみがどうせ何者にもなれなかった、繭のなかのぐずぐずのいきものだということを)

 逃げなければ!

 意識は悲鳴をあげて警告を発するのだけれど、どこへも行けない、という思いもそれに付随して離れなかった。

 だってここは僕のなかだ。僕という規格をこえてはゆけない。

 冷静さを完全にはうしなわせてくれないのは、僕を――僕の意識を痛めつける、ということが、この夢のコンセプトだからなのだろうか?

 どうすればいい?

 僕はどこへ逃げられる?

 泣き叫ぶように声を上げたかったが、髪を掻き毟ってぎゅうっと目を瞑ってしまいたかったが、からだのないここでそれは到底かなわなかった。夢はまだ醒めてくれない。ぱくぱくと唇を動かすような感覚だけがある。感覚だけだ。嗚咽にもなれない、声さえ発しようとしてはかたちにならずに消えていく。

 お願い、

 おねがいだから、

 たすけて、

 だれか、ということばが浮ばなかったのは、それよりずっと早く、ずっと鮮烈に、ひとつの名前がもうそこにあったからだった。ほかの誰かなんて知らなかった。叫ぼうとした名前はやはり声にはならずに咽喉から酸素が逃げるように感じただけだったが、それらの内へ向かう声が、代わりにそのひとそのものをかたちづくってみせた。肩まで伸ばされたうつくしくうねる銀の髪。赤い宝石のような瞳。弧をえがいて半分細められた目蓋。微笑のかたち。完璧な、肖像のような、生きた彫刻。

 からだじゅう(ここにあるのは意識だけなのに、)が熱にうばわれた。粟立つ感じ、怖気にほとんど相似する快楽をひきのばした感覚。

 陶酔と安堵がすべてを浚っていった。恐怖が瞬間的にはぎとられ、組み替えられた。

 このひとに、全部預けてしまいたい。

 共有をせがんでしまいたい。

 恐怖を。おびえを。ふるえを。息苦しさを、痛みを、喘ぎを、ほとばしるように喚きつくして受け入れてもらいたい。

 呼吸をわけて。息をさせて。

 

 そうだ、もうずっと泣いてしまいたかったんだ。

 

 彼のすがたを認識した途端、僕はそれらの感情といっしょに炸けるように手をのばしていた。ここに手というものがあると仮定するなら、ほとんど反射的に、そうしていた。

(ねえ、)

(でも、)

(それはできないよね、)

(だってそんなことをしたらそのひとはいなくなっちゃうだろ、)

(きみはそれを知ってるだろ、)

(だから無知でいたいんだよね、きみは、)

(だから苦しんでもいいって決めたんだよね、きみは、)

(だから、こんなことになっているんだよね、きみは、)

 こどものように縋りつこうとする手がぴくりと跳ね、僕はおもわずそれを握った。彼のブラウスではなく、じぶんの拳を、だった。

 僕の意識が吐き出す透明なざわめきが僕を嗤っていた。声でもないくせに、それは耳障りな哄笑だった。でもそのとおりだった。

 だってそうだろう。そんなことをしたらこのひとの目に僕は褪せてしまうから。行ってしまう。遠いところへ行ってしまう。僕を、置いて。それらの絶望的な確信を持ちながら、つかの間の安堵のためだけにすべてを投げ出してしまう勇気なんか僕にはなかった。僕はこのひとのまえで傷ついていよう、傷ついていながら泣かないでいよう、ときめていた。たとえどんなに縋りついて、受け容れられてしまいたいという衝動に瓦解しそうになっても。

(かれは、いつか言っていたね。手に入れられないものじゃないといけないんだって。そうでないと褪せてしまうって)

(かれは、いつか言っていたね。咲いてしまった薔薇のこと。急に美しく思わなくなったんだって)

 そうだ、僕はそのとき知ったのだ。かれが、手に取って美しいと思うのは未完成な蕾の可能性で、分化した未来なんかじゃない。

 だから僕らずっと駆け引きをして、その時間を繰り延べるしかなかったんだったね。

 かれはもしかしたら、僕の知らない領域のことを、僕より深く知っているのかもしれない。暴くことができるのかもしれない。そうしないのは僕をずっと未完成で何者でもないままあらせつづけるための方法なのだ。

 僕がそれに同意した。

 共犯者だ。

 誰よりも僕を蚕食しているのは、それを選んだのは僕自身だ。それを選べるのは僕だけだ。

「ねえ、もうわかったよ。じゅうぶん」

 皮肉なことに、その事実が僕を落ち着かせてくれた。縋り付こうとして静止していた腕をおろして(もちろんそんなものはここに実在しない)、夢の中で拵えられたかれの立像を見あげる。僕よりずっと背が高くて、しなやかで、彫刻のようなからだ。ふっと目を細めるだけで、淡く微笑のかたちをつくるだけで、僕を蝶のように磔にできる。その目の赤いのはきっと僕のこころへ潜んで病巣から吸い上げた血の色だ。痺れるほど甘くて、やけるほど痛い傷をのこす共犯の笑み。陶酔的な眩暈。

 きっととても耐えられない。このひとの赤い目に、僕が映らなくなるということ。みんなそうだ。僕のうちにある僕たちはみんなそうで、みんなこんなにも、どうしようもなく無様だ。

 だから扉の向うへ追いやってしまうんだ、と思った。

 不安も、迷いも、苦しいのも、痛いのも、すべて。

 全部保留にして、何にも気づかないこどもを演じてきたし、これからもきっとそうするだろう。

 麻酔のように。

 それは遠ざけるだけで、僕はまた、いまだって、じわじわと首を絞められ続けていることにかわりはないんだろう。

 そう遠くない日、いつか同じ夢を見るだろう。そうやって繰り返してきたんだろう。

 そのたびに、いつだって僕がはじき出すのは同じ答えだったというだけだ。

 笑ってしまうくらい同じ。繰り返しているだけ。

 だけどあのひとがいなければ、僕はきっと生きてなんかいなかったね。こんなになってしまうまでは。こんなふうになってしまうまでは。

 彼は僕を傷つけつづけ、あざやかな傷がまだ僕を生かしている。

 透明のざわめきは沈黙して、もう聞こえなくなっていた。

 彼のイメージも消え去っていた。あれほど僕の呼吸を困難にしていた気配は霽れわたり、そこは凪いでいた。それから僕は、最初からここには静謐しかなかったのだと思い出した。どこまでもただ静かに、ミルク色より無菌な白い空間が漠然と広がっているだけだ。水平線もなにもない、天地もわからない白い闇。

 僕は確信して、振り返る。

 そこに今できたばかりの、まあたしい白い扉がひとつ、ぽつりとたっていた。

 あの〈扉〉たちはこうやってつくられていったのだ。

 幾千もの扉たち。

 それはいつも僕をみはっている。ひとつは、無知を演じる僕を責め立てる機構として。もうひとつは、それでも何者にもなれないままでいようとする、僕であることを棄てて彼のオブジェであろうとする、その証明として。彼の隣にいられるつかのまの僕への羨望を込めて。

 僕は笑った。それがただしい微笑のかたちになれていたかはわからないけれど、このどうしようもなく愚かな、そしてこれからもつくられつづけるだろう僕の墓碑に、いつかまた何もかもわからなくなってここへ来るだろう僕へ憐憫を込めて、笑ってみせた。

 夢はめざめに向かっている。

 きっとまた繰り返すだけの、微光をまとってきらきらとかがやく、憂鬱へのめざめに。

 

 そのむこうに、あのひとがいる。