かまわないよ。

 

 この繭のむこうで、世界がたとえとっくに終わっていたって。

 

 

 

 

 

僕たちの二重奏(上)

 

 

 

 

 

 名前を呼べば振り返る。

 

 ときどき無意味に頓着したくなる。それはもしかしたら奇跡みたいなことなんじゃないかって。

 

 艶つやとした濃緑の低木の、その赤い花を背景に、かれの銀鼠の髪と開襟の白さとが際立っている。額をつけたらきっと絵画めいていた。どこを切り取ってもたぶんそう。僕がそこに意味を見出してしまうかぎりは、ずっとそう。

 

「蝶をみなかった?」

 

 たずねると、彼は花に触れるのをひととき中断して首を傾げた。

 

「蝶?」

 

 その唇を追いながら、僕のひとみはその手中に金色の剪定鋏がひかったのを克明に記憶した。写真を撮るみたいに、わすれられない一文に栞をはさむみたいに。どういうわけか、視線はそこに惹きつけられていた。

 

 鋏、というのはつまり凶器で、花にとっては厳かに執り行われる罰のしるしだ。

 

「みなかったけど。それで捕まえるつもり?」

 

 彼は笑って、それから僕の抱えたものをことばで指す。

 

 僕はそれの、よく揃えられた細いワイヤがつくる格子のかたちとうつくしい半円形の屋根とを気に入っている。これほど見目よくできたオブジェが、それ自体はただの容れ物だなんて信じられないくらいだ。

 

   いつだったか、彼が〈外〉の土産だといってこれを僕に手渡したとき、そのなかでは小さな鳥がかぼそい声で鳴いていた。瑠璃色の羽がきれいで、いろいろの角度から眺めると天鵞絨みたいに波をうった。僕はその鳥をすっかり本当だと信じて疑わなかったけれど、いまとなっては、あれは人形だったかもしれないとも思う。死ななかったから。ううん、それじゃ語弊があるだろうかーーすくなくとも死骸をみてはいないから。だからわからない。ほんとうのことなんてなにも。

 

 彼だって、たぶん行方を知らない。そいつがどうなっているかなんてついぞ尋ねもしなかった。手を離れたものにおよそ興味がないんだろう。

 

 追いかけない。

 

 たとえば僕が、この人の前から逃げだしても。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の記憶のしくみには損傷があるらしい。

 

 らしい、というのは、正式にお医者(〈外〉にはそういうのがいるそうだ)にかかったわけではないからだ。

 

 「憶えて」はいるけれど、それがいつだったかを読み出せない。場面なら頭に浮かぶのだけど、それがいったいどういう順番で並べられるものなのかを考えはじめると、たちまち意識は霞がかって、それ以上遡ることをゆるさなかった。テグスのきれたビーズ、つながれるための線をうしなった星座みたいに、断章たちはめいめいに散らかっていた。

 

 その断章のほとんど全てに、彼の姿はある。

 

 

 

 

 

 僕がそうと思っているおそらく最古の記憶はーーもちろんただしいのかどうかはわからない、という注釈つきだけどーーめざめからはじまっている。

 

 目蓋をひらくと、そこは〈蔓の褥〉の腕のなかだった。

 

  〈蔓の褥〉は、広間の壇上に聳える植物に似たオブジェだ。棘のない、白いつややかな蔓が、たがいに絡み合い、曲線的なうつくしい交錯をえがきながら円天井へとしなやかにのびていた。背丈とほとんどかわらない高さで停止したそれに、抱きかかえられるようにして僕は睡っていた。ふしぎなことに、あとからそこへ横たわったというより、僕のからだをささえるようにしてそれはのびていた。けれどどうしてそういうことになっていたのかちっとも思い出せなかったし、逡巡することもなかった。目蓋をうすくひらいたそのさきに、みたことのない赤い鉱石が輝いていたから。

 

 それが石でないことを理解するのにたっぷり十秒はかかったろう。だってここに知らないだれかがいるなんてことはいちどもなかったから。その赤い石は少年のふたつの瞳で、ゆるやかなカーヴをえがいてこぼれかかる銀の髪の隙間から、まっすぐに僕を視つめていた。めざめたばかりの視界は霞がかって、それがやけに拡散されてうつった。

 

 その視線の交錯を、それだけははっきりおぼえている。

 

 世界は、この瞬間溶けだしていた。これからこの一瞬が楔のようになるのだろうな、と理解ってしまった。ひどく本能的な、動物的な直感だった。

 

「ずっといたの。ここに」

 

 いまよりずっと高い、子どもの声が少年の唇からきこえた。弾むように澄んでいながら緩慢で、いやに静かだった。僕は頷くかわり、なにも言わなかったーー言えなかった。そう、ことばをほとんど思い出せなかったのだ。喉をつかってみようとしたけれど、じぶんがどんな声をしていたか、ぜんぜんわからなかった。なぜじぶんが怯えているのかも。

 

「おぼえていない?」そのあと、かれはいいかえた。「いいや。……こわい?」

 

 どうして伝わったのだろう。表にはだしていないのに。少年の、機微の察知はほとんど魔法だった。とつぜん、苛立ちが、というよりもずっと暴力的な衝動が、僕を支配していた。ひどくこどもっぽい抵抗だったのかもしれないし、おびえの正体をーー記憶へのアクセスを拒絶するための、防衛的な機構だったのかもしれない。〈蔓の褥〉から腕をのばしてかれのうつくしい銀糸の髪を乱暴に掴み引くと、赤い瞳と僕の瞳とはもうごく間近に迫っていた。

 

「おまえ、きらいだ」。

 

 無性に傷つけたくてそんなことばを吐き出しながら、僕はかれの瞳はほんとうにきれいだな、と思っていた。するとこんどはその矛盾が可笑しくてしかたなくて、くつくつとどうしようもない笑声がこぼれていた。いったい、どうなっているんだろう?僕のからだの舵をとるのは僕じゃなく、胸のうちで目眩みたいにぐるぐると廻ってはきえる、一瞬一瞬の爆発にすぎなかった。

 

 きみはまるで現象だ、といつかかれに言われたことがあったけれどーーいいや、このときの僕からすると、言われることになる、のだけどーーそのことばが、いまとなってはただしいと思える。

 

少年は咎めも糺しもせず、なにひとつおどろくことなんかないみたいに、ただふ、と目を細めていた。そのとき、ああこのひとは傷を知らないんだ、と思った。ふしぎとそれがただしいという自信があった。よく鞣された革、凪いだだけの海、どれほど爪をたてても表面を滑っていくだけの陶器。僕はそれから夢想する。その陶器にふかく線がはいり、柘榴みたいな傷口が花開くみたいに覗いたならどんなに心地好いだろうって。

 

 傷を、つけてみたい。

 

 このひとにいつか。

 

 倒錯は甘美で、だけどいまふたたび縺れあった一瞬のまなざしのなかで、それは成立した。

 

 僕たちの二重奏、

 

 たぶん共犯というなまえの。

 

 

 

 

 

 

 

 かれはそれから〈外〉についての知識やことばを与えてくれたけれど、それはたぶん、かれによって択びぬかれたものだけだ。少女がお気に入りの素材でていねいにつくった装身具みたいに、僕というひとはかれの、ひどく個人的な夢の鏡として組みたてられていった。

 

 そうしているうち気がついたのは、与えるものというより、与えないものに関して緻密な計算をしているんじゃないかということだ。

 

 あの瞬間から、かれが自分が何者であるかということを示したことはいちどもない。過去もそのさきも僕には語らなかった。ことばについても同様だ。もっとたくさんのヴァリエーションがあるはずとわかるのに、それをあらわすものが抜け落ちていた。とりわけ肯定のことばが足りなかった。

 

 とても厳格なしきたりを教えこもうとするみたいに、じぶんからはなにもおしえない。

 

 だけどきっと尋ねればあっさりと答えてしまうこともまた僕にはわかっていた。

 

 それはかけひきだった。

 

 曖昧で定義しえないということ、

 

 それを装うこと。

 

 かれが僕をとおして得ようとしているものを知っている。

 

 何者でもない、定位されない、未分化の、蕾や繭のようなもの。ひどく奔放で野生的で、ただ愚かでもない獣。僕はことさらそれにつとめた。なにも知らないでいる、ということに。無知で衝動的で暴力的な現象。もはやそれがかれのためなのか、自分自身のふるまいなのか、わからない。

 

かれは糺しもせず、虫や花やふるいオブジェなどに暴虐のかぎりをつくす指先をただみつめていた。そこに宿るのは微笑みではなく、また呆けた恍惚でもなかった。僕がそうするとき、かれはきまって口許を手で覆い、なにかふかく考え込むみたいだった。

 

 赤い瞳だけが、視ていた。

 

 いちまいの額装されるべき絵画の、美の生成され、燻りたつその瞬間をけしてみのがしたりしない、というように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーー追いかけない。逃げだしても。

 

 僕は美学の鏡だから。

 

 鏡が鏡でなくなるとき、それはもう無価値なのだ。

 

「で、その蝶なんかつかまえて、ちゃんと世話してやるの?」かれの問いかけに、僕はすこし考える。考えて、

 

「誰がそんなもの探していたわけ」

 

 尋ねた。

 

 僕の記憶のなかにたしかにそんな場面はあるのだろうけれど、いま、それはずっと過去のようなーー置き去られたもののように感じていた。とおくはなれていた。僕の記憶はそういうふうにできている。

 

 かれはそれにちっともおどろかなかった。慣れている。なんどもこういうことを繰り返したのだとわかる。ほんとう、僕は〈現象〉だ。あの視線の交錯の、その瞬間だけが、僕をかろうじて僕たらしめる唯一の基点なのだ。

 

「朝食にしようか。紅茶を淹れよう」

 

 摘みとったばらで満たされた大きな壜を抱えてかれはゆっくりと立ち上がった。右手に金の剪定鋏がひかる。その鋏で僕をつらぬいても、かれには傷にならないだろうか。それでもあの胸のおくに刃はとどかないだろうか。そうだとしても、僕はその画をおぼえていたいと思った。鏡である僕の、それはただひとりだけの望みなのかもしれない。二重奏の、その譜面につづられていない秘密の音なのかもしれない。

 

 僕はそして夢想する。

 

 かれの語る〈外〉のはなしだって、なんの根拠もない。たしかめるすべもない。いくつかはほんとうでいくつかは虚構だと思っていたけれど、あるいはすべてが嘘かもしれないのだ。世界はとっくのむかしにこわれ果てて、もう生きているのがかれしかいなくて、ここで〈外〉について語るときにだけ世界がまだあるように思えるのかもしれない。かれはこわれた世界の夢をみているのかもしれない。獣は、くるっているのは、かれのほうかもしれない。ただの夢想なのに、僕はそれをすっかり気に入っていた。

 

 かまわない、と思った。

 

 この繭のむこうで、世界がたとえとっくに終わっていたって。

 

 そうしたら、黒い星の海に響いているのは、僕らの、ただ僕らだけの、ほんとうの二重奏だから。