たとえばきみならこのあそびになんと名づけるだろう。あまやかに首を括る手の、その親指はわずか触れたほそい脈から僕の心臓の韻律を知り、唇は首すじを食み鎖骨の皿をつたってやわらかな平地をたどる。そうしてからだの地図を指先はなぞらえる。くすぐったい。僕はもどかしいその蠢きが可笑しくてときどきくつくつと笑うのをとめられなかった。
「そんなに面白い?」
「ううん、ぞわぞわして気持ちわるい。へんなの」
「痛いところはない?」
「ない、そんなので、わかるの?」
指は肺のあたりをすべっていってそれがほんとうにこそばゆいのだ。こんなことでからだの悪いのが判るなんて不思議だった。かれの博識は、評価すべきところがある、かもしれない、な。
だけどそんなふうに感じたことが次の瞬間にはもう好ましいことではなくなってて、それは考えなかったことにした。どうして好ましくない、と思ったかわからない。わからない、ふりをする。蓋をして僕から見えないように、もとからそんなの知らなかったように、する。
なんでこんな機嫌のいいみたいにしてしまったんだろう。
気に食わない。
そうだ、彼はずっと気に食わない奴。
それでいいんだ。僕には。どうにもならないことだってあるのを分かってしまっている、僕には。
「からだを起こして」
「……いやだ」
「またなにか嫌なことでも思い出したの」
「べつに」
「そう。起きないなら無理にでも起こすけど、いい」
「いやだ、」
拒絶するまえに強い力で腕を引き寄せられた。いたい、と目を瞑ったのとおんなじに、掛かるちからに逆らえないからだがそのままついていって目蓋を開いたころには寝台にぺたりと坐った姿勢になっていた。突然のこと。こわい、なんて思ってしまうから驚くのはきらいだ。こんなやつに無防備な顔をみせるなんてたまらなくいやだ。
いつか裏切るくせに。
「腕が千切れたらどうするの」
「ちぎれる?ちぎれるね。ふふ。そんなことはおこらないよ」
「どうして笑う。なんで断言できるの。」
「うん、いや、そうだね。断言はできないな。ふふ、きみの言う通りだ」
ときどきこの人はそうやって僕をわらう。何が可笑しいのか分からないけれど、たぶんばかにしてる。それくらい僕にだって読み取れた。犬を演じるくせ敬ってなどいない、ということくらいは。
「ばかにしてるんだろ、僕を、僕がなんにも、しらないから」
「馬鹿になんてしてないよ。ただ君があんまり純粋だからね」
「だから、なに」
「言ったらもっと機嫌をわるくするだろうね」
「濁されるのはもっといやだ」
「そう。いや、君があんまり純粋だから、可愛いなと思って」
「……なにそれ。その理屈、ちっともわからない。結局ばかにしてるんじゃない」
「ほら、言ったとおりだろ。機嫌を悪くするだけだってさ。
じゃ、つぎは目を診ようか。ほら、」
お喋りは終わりというように僕のよりずっと大きくて、すらりと伸びる長い指を持つ手が、頬を包んでぐい、とすこし上向かせた。
親指と人差し指とで、僕の目を片方ずつ開いて観察する。空気が眼球に直截触れるのが冷たくて、そのひやりとした心地よさに、すこし絆されたような気がした。存外単純なんだな。遠いところでもうひとり、観測者気どりの僕が呟いたみたいに思えた。
「……気持ち悪くないの」
「何が」
「僕の目。傷が、あるから」
「別に。なんともおもわないよ。」
そういってかれは僕の右目の、縦に走る引き攣ったきずあとをなぞった。
あまやかなふちどり。
赤い瞳がじっと僕の目の奥を探る。
「いたかった?」
彼は問わない。その傷の理由も由来も、何も。興味もないのだろう。知りたがらないだろう。
僕がこのひとを、知りたいと思うほどには。
「……うん。うん」
いたくなんかなかったよ、
そう言おうとしたけれど、どうしてかうまく嘘を言えなかった。これは、合図だ。口にしてから気付いた。おまえの言うことを聞いてやるって、そういう合図だ。
あまったるくて反吐が出る。
この宝石じみた鳩血色の目はいつか僕を映さなくなる。
わかってるんだ。はじめて僕にかしずいたときからもうとっくにさよならの予感なんて知ってた。きみだって、きみがいちばん、知ってるんだろ。いつか僕だってその目に褪せてしまうこと。僕の前を去っていってしまうこと。 いま僕らをみちびく万有引力は、けして幸福な終幕から発せられたものなんかじゃない。
ふいに、指先は瞳を離れて頬をつたい、唇に触れた。わずかぷくりと押しあてたのがあんまりいつも通りで、これはもう合図として諒解されるにじゅうぶんなのだ。ふ、と開いてみせると、ぬるり、口内に滑り込んで、その流れるような運びはまるで計算され尽くした予定調和だった。そうして彼の人さし指は歯の裏側や歯茎をていねいになぞっていく。むず痒いもどかしさ。緩慢な怠惰。「虫歯がある」。彼はそう言って、それからちゃんと磨かないと駄目だと言った。やがて下の奥歯をなぞらえ終わると、こんどは上顎のあたりを這い回る。そこにもう規則なんかなかった。生き物みたいだ。ぬるぬると舌先でからめて戯んでいるうち、なにも考えたくなくなってしまった。なんだか喉咽がかわいてる。そうだなにかつめたいものを飲みたいな。とろりと瞳を伏せて、そうやって僕は思考を放棄した。
そうしているうちふたつのからだは弧を描いてふたたび寝台に沈んだ。きょうの診察、はやけに長いな、とおもった。彼の犬歯がぷつりと僕の首すじに傷をつくる。心地よい痛み。まえに、血の味で、なにがたりないかわかる、といっていた、ような気もする。僕のからだはほかにどこか悪かったろうか。彼は教えてくれない。
とどめるための約束なんかしたくない。破ることが前提のゆびきりなんかさせたくないんだ。無様なかたちだけの、そんなものでかれのうつくしい指先をけがしたくなかった。そこになんの効力もないって僕は知ってた。だけど、きっとしらないほうがいまこの瞬間は幸せになれたかもしれないね。ねえ、知っているためになんにもできないことと、知らないでさいごに裏切られるのと、いったいどっちがほんとうにさびしいんだろう。
彼の舌が僕の血を嘗めとる。ざらりとした感触。ぼんやりと開いただけの目蓋、仄霞む視界のなかで、プラネタリウムの紺瑠璃の空だけがベッドの天蓋にきらきらひかっていた。頭上にほんものの星が瞬くときってどんな心地なんだろう。どこか遠くへずっとつながっている空を知っているってどんな気持ちなんだろう。どこへも行けない僕をひとりにしたあときみはどこへいって、何を見て、どんなふうに生きるんだろう。僕にはわからないことばかりだね。いつか僕じゃないだれかを、こんなふうにすることってあるのかな。その瞳に映して、それで可愛いって、さっきみたいに、いうのかな。僕はいまこの目から零れ出した何かの、その正体だってしらないのに。
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