ト ー カ / 透 禍


 かつての人びとは行ってしまい、〝かつて〟になった。
 そして目蓋をひらいたとき、〈わたしたち〉はここに存在していた。
 彼らはこの世界から家出した理由も、歴史も、なにひとつ〈わたしたち〉に遺していなかった。

 〈わたしたち〉がかつての彼らを思い出すために手繰ることのできる唯一の糸は〈ライブラリ〉とよばれるデータベースだけだ。〈ライブラリ〉に保存されているのはたくさんの絵画、詩、小説などの文化資産ーーの、画像や表題や作者の名前だ。現物はどれも消失しており、その芸術たちは亡霊のようにデータという信号のうえでだけ存在している。
 その外観は個人のブログかサイトといったふうで、誰かが意図をもって〈わたしたち〉に残そうとしたのか、それともただかれらの方舟に乗りそこねて漂流しただけなのかは不明のままだ。

〈わたしたち〉の誰かが言った。
〈わたしたち〉の世界は、置き去られたのか、それとも選び取られたのかわからない。
 過去は洗い流され、記憶は透明になった。
 それが祝福であれ、〈わたしたち〉にはけして知り得ないという痛みが残された。
 この文明の途絶した世界を、〈わたしたち〉は〈トーカ/透禍〉、と呼ぶことにしている。



‎𖤐 ̖́-‬‎𖤐 ̖́-‬‎𖤐 ̖́-‬



トーカ/透禍
「記憶のない世界」。
この世界では、人類の文明は銀河間の移動が可能な段階から始まっている。それ以前の記録はすべて漂白されたかのように(あるいははじめから用意されていないかのように)存在していない。

非実在不安症
〈トーカ〉世界にゆるく蔓延している無意識の不安感。
「この世界はきのう生まれたばかりのフィクションで、自分の記憶も過去も全て誰かに設定された架空のものなのではないか」といったようなもの。
現実でもしばしば耽けることのある夢想だが、〈トーカ〉世界ではより切実。

SOL.ソル
現文明の象徴とよばれる星。
新規の天体開拓に欠かせない人工調光衛星、通称〈月〉技術を独占している、星自体がひとつの巨大企業。
居住地は地上から層を重ねて天へ伸び、それを支える幾多の柱が交錯しあって宇宙空間からは巨大な白い繭のように見える。
旬蘭の出身地。 


対象の天体に、人が住むのに適当な熱源を供給する人工の衛星群。

階層間昇降機リフト
SOL.の中心部に聳える巨大エレベーター群。
SOL.は高層階ほど新しく発展しており、リフトでの階層間移動にかかる料金は移動する層が高ければ高いほど上がる。
また、高層階の多くはあらゆる場所で資産データと紐付けられた生体認証システムを導入しており、社会的地位や資産の保証がないとその層のエントランス自体に入れないようになっているところが多い。
戸籍上の身分の差は存在しないことになっているが、実質的には居住層のかたちそれ自体が目に見える身分制度となっている。

掬い上げサルベージ
篤志家が下層の特定の個人の後見人となること。
〈救済協会〉の孤児、愛人、娼婦といった〝お気に入り〟のパトロンになるということだが、制度として認めらたサルベージはただの出資者のように途中で放逐することは出来ない。
人生そのものが好転するため、〈生まれ直し〉とも呼ばれる。

寄宿舎
SOL.下層にある娼館のひとつ。
旬蘭が少年だった頃に暮らしていた場所。また、職場。
もともと寄宿舎だったところを娼館として改装しており、〝仕事〟をする少年たちが暮らしている。

救済協会
貧困層の子どもや孤児を預かる施設。
星や国が公的に設立したものではなく、篤志家の出資によって存続している。
あらゆる星に拠点を持つ。

メルツェル社
アンドロイド関連企業のリーディングカンパニーとして圧倒的な地位を確立しており、実用的な自律型ドールの祖と言われている。
御影とわかれたのち旬蘭が勤めている企業。

メルツェル・ドール
一般に普及しているメルツェル社製のアンドロイド。マスター権限によりパーツ換装が可能で|指標パラメータカードを用いてその個性を設定できる。
その性質上、非公式のパッチによる倫理に悖る使用が目立ち、〈人形倫理協会〉からシステムの抜本的な見直しまたは製造中止を求められている。

人形の海
上記を受け、メルツェル社はこれまでとは異なるドールをリリースすることになる。
個々の指標パラメータカードにステータスや記録が保存されるのではなく、すべてのドールの経験は〈人形の海〉と呼ばれるネットワーク上に蓄積され、かれらはその巨大な情報の海から自らに掛けられたことのある言葉、身近な者の仕草、思考など、自らを取り巻く環境に合わせて反応を抽き出すようになった。
かれらは環境によっていかようにも成長する。人間の子どものように。

▫️旬蘭はこのプロジェクトに関わっている。
その目的は、ネットワークに蓄積された記録情報から〈イヴァンの箱庭〉の演算機の在り処を探し出すこともできるのではないか、と思ったため。
データを抽出できれば御影を器を持つ人形として再現できるのでは、それはフィクションと現実との境を曖昧にするのではという興味からだが、実際に「そうすること」を願っているのではなく、その夢想を抱くことにこそ執着している?

エーテル機関
〈ライブラリ〉のような過去の文明の遺物のこと。オーパーツ。「よくわからない理屈で動く何か」。
現状〈ライブラリ〉以外には見つかっておらず、この言葉の使用率の9割はオカルト誌。


表象のにわ
三次元的な場所にはない、いわゆる仮想空間のこと。
〈トーカ〉以前の遺物(つまりエーテル機関)で、公には見つかっていない。

イヴァンの箱庭
お話の舞台。表象の菀のひとつ。演算機本体がどこにあるのかは不明。
ゲストの欲望を基底としてそのありようが変化している。

幽霊/ゴースト
〈表象の菀〉に存在するすべての魂(AI)、その総称。

ヴィジター
〈表象の菀〉を訪れる人びとのゴースト。
外部に肉体を持つ〝人間〟。
現実世界の本人の意識とリアルタイムに交信しているわけではなく、あくまで行動履歴や興味・嗜好の対象といったデータから抽出されたアルゴリズム、〈その人らしい行動をなぞる幽霊〉にすぎない。

ヴィジターの記憶
ヴィジターが拾い集めたエピソード群は、受け取られることによってはじめて本人の意識と結びつく。
夢ほど曖昧ではなく、記憶ほど具体的でもない。
本人にとっては、未来から振り返ってようやく見える起こらなかった過去。

住人たち/ホスト
現実世界に器を持たない、表象の菀に存在するもの。NPC。

データ的アポトーシス
ヴィジターが来なくなったまま存在し続けた〈イヴァンの箱庭〉は、リソース節約のためデータ的アポトーシス(世界の縮小)を起こした結果、NPCが徐々に削除され、最低限のAIを役割を変えて使い回している。

欲の肖像
アポトーシスの結果、もっとも古いホストである男女一対が残された。
彼らは以前は兄妹の設定だったが、ヴィジター=凪が現れたことでその記憶は消去され、彼の〈家族〉という欲の形の肖像として機能しはじめる。
自分たちがNPCだという自覚はあるが、役割を書き換えられていることへの自覚はない。

御影(みかげ) 
〈イヴァンの箱庭〉に暮らす少女。
ある目的から〝箱庭〟を運用しているあらゆるデータを閲覧することができるため、実質的にその意思を体現した存在。

だったが、現在はヴィジター=少年のころの旬蘭の〈未分化の繭〉という欲の肖像として機能している。

花々
表象の菀の花々や木々は複数用意されたテクスチャをランダムに呼び出して描画されているため、同じかたちをした花びらや同じ葉脈をもつ葉などが見つかる。




▫️〈トーカ〉は、宇宙、アンドロイド、非実在と実在、などの私の好きなものをまるっと扱えるちょっとふしぎな世界です。
これを港のようにして、ゆるくつながりつつ独立した色んな話が書けるんじゃないかなと思って生まれました。