旬蘭/Syunlan


年の心は凪いでいた。世界は、まるで膜を一枚隔てたかのように他人事に思えた。
 寄宿舎と呼ばれる場所で大人たちの「相手」をする同じ年嵩の少年たちの、憎悪や諦念やよろこびや悲哀といった感情のすべては自分の内にひとつも見つけられなかった。
 だからこそそれらは鮮やかに映ったが、手に入れたいと願うほどの切望もまた彼の中にはなかった。

 ある日彼は父親から一個の繭を与えられた。
 その繭は綿を敷いた正方形の小箱の中で長いこと孵らなかった。
 繭に守られた蛹の中でどろどろになったものは、自分が何になるのか知らないために、分化できずに永遠に夢を見続けているのだろうか。あるいは繭それ自体をほどけばするすると解けて何も遺らないのではないか。
 夢想すればその光景は少年の中でありありと花開いた。
 いつしか未分化のものだけを特別に美しいと思うようになっていることを知ったのは、その繭がいつの間にか姿を消していると気づいたときだった。分化を秘めたままの不完全性、手に入れられないものこそが唯一心を動かしてくれることを知った。蕾であり続ける花を、種のわからない胚を、実りを知らない果実を、そういった夢ばかりを見た。
 そんな感性や拘泥がじぶんの中にあったことに少年は驚き、静かに、そして執着した。あざやかで痺れるほどの熱情に。
 彼が執着したものは、そこに物資的に横たわる繭ではなく、執着という感情それ自体だった。炎めいたそれを留めたい、と思った。それが彼の心の唯一の熾となった。

 少年はその後篤志家の青年に掬い上げられた。
 彼は少年に市民権と教育と自由とゆるやかな監視の目を与えた。位置情報と生体データはリアルタイムで更新され、青年のデバイスから好きなときに閲覧できた。少年はそれを快く了承した。きみの最期のとき、その赤い瞳を石に変えて指輪にしたいのだ、そのためにきみの「死体」を買ったのだと告げた青年の、目の前で生きている、まだ見ぬ死体に執着するその美学が、少年もまた理解できるような気がしたからだった。




御影/Mikage 


の子どもは白い蔓にピエタのようにだきかかえられてただ眠っていた。そろそろと目蓋を開いたとき、そこに映ったのは少年の宝石のような赤い瞳だった。

十ほども歳上の彼は〈箱庭〉を幾度となく訪れ、少女に言葉や〈外〉についてを教えた。それが真実かどうか少女には確かめようもなかった。彼の嘘に象られてやってもいいという恍惚を感じながら、その人の見ている世界を知ってみたいともまた願った。

少女の記憶には欠陥があり、正しい順序に並ぶことができずにいつも感情は不安定に揺れた。僕は一過性の現象のようなもの、と少女は言った。苛烈な言葉や蝶の翅を毟るような指先の暴虐の数々を、しかし彼は咎めも糺しもしなかった。

少年の育てていた薔薇が咲いたある日のこと、彼はその花々を鋏で一つ一つ切り落としていた。少女に気づくと、急に美しいと思わなくなっちゃった、と彼は穏やかな声で告げた。地に落ちた花を眺め、細められた彼の目の奥に茫洋とした空虚を探し当てて、自分もまた同じなのだと少女はすっかり悟った。
彼の美学の鏡で、生きた偶像なのだと。

何者でもない、定位されない、未分化の、蕾や繭のようなもの。ひどく奔放で野生的で、ただ愚かでもない獣。少女はことさらそれにつとめた。もはやそれが彼のためなのか、自分自身のふるまいなのかわからなくなった。同時に、少女が自ら偶像を演じていることを彼もとっくに気づいているだろう、とも分かっていた。彼はこの聡いゆえの愚かさもまた鑑賞している。この共犯のような関係は少年が大人になっても続いていた。



凪/Nagi 


年は飢えていた。はじめは孤独という意味でだった。同室の彼らに着いていくような自主性のなさで〈救済協会〉を飛び出してからは、飢えはまた違った意味になった。

〈救済協会〉は機能不全どころかむしろずっと清潔だった。きちんとした食事、適度な運動に娯楽、身元の証明。たくさんのファミリーと平等な愛情。けれど少年が欲しがったのは正しさや博愛ではなく、ひどく偏った、独善的な贔屓で、そしてそれを当然に赦されるようなたしかな繋がりだった。それが手に入ることがないのはわかっていた。少年は両親を知らなかった。

糧を探すために分け入った森の中で、少年は異界に紛れ込んだような感覚をおぼえた。そこに「彼ら」はいた。美しい男と女。この世界に存在するすべての慈愛の記念碑的な立像のように感じられて、涙が出た。なぜだかひどく懐かしい気がした。父と母。幸福な食卓。そこは少年のみる幸福な夢の、つまりは叶わない祈りのその原風景に、とてもよく似ていた。
彼らは少年を迎え、自らの子どものように愛した。
忘れかけていた渇きが彼を襲ったのは、兄になるのだと知ったときだった。彼の行き場のない不安は生まれたばかりの「妹」への憎悪となって息づいた。

少年の夢はある日「妹」が消えるという形でふたたび叶った。幸せなテーブル、いつもの席、そこに二つ分あるはずの椅子が一つ足りなかった。一晩のうちに何があったのかを少年は今この時も知らないでいるが、「母」が彼女を拒絶したということだけが彼に分かる唯一のことだった。「妹」は塔に閉じ込められていた。少年はそれをいい気味だと思った。

妹を置いて三人で〈箱庭〉を出た後のことをよく覚えていない。その記憶は自分の生んだ幻だったかもしれないが、それよりももっと真実に近い閃きを得たとき、少年は思い出すことをやめた。
彼は〈救済協会〉に戻り、やがて大人になった。
半分は置き去りにした妹への罪悪感、半分は好奇心のために、彼は記憶の蓋を開ける決心をした。
〈箱庭〉に戻るとそこには赤い瞳をした青年がいた。彼は「妹」の記憶を視たと告げ、君のことを知っていると言った。君がなにを確かめに来たのか予想がつくと笑った。
凪は長い間触れることのなかった、おそらくは「答え」を告げた。
ここは誰かの欲望を満たすための演算の中なのではないか。
父と母はここを自分と一緒に「出て行く」ことーーそのログを残すという形で自死を選んだのではないか。
間接的に彼らを殺めたのだということに、凪はずっと気付いていた。