そこだけに光がおちて、クラヴサンはしずかにたたずんでいた。
カーヴをえがいた花緑青の脚に黒いからだが横たわり、直線のかたさとまろやかな曲線のなまめかしさとが、中性的な魅力を薫せている。
絵画にえがかれた聖者のようでありながら、ひどく蠱惑的でさえあった。
そうして両の指は黒檀の鍵にふれていた。
見えざる腕にひかれるように。
僕たちの二重奏(下)
音楽に深い造詣はない。
技術も腕もなく、少し齧った程度といったところで、だからこの指先からうまれるものは、とても玄人に聞かせてうつくしいと呼ばれる代物ではないはずだ。
子どものころ、音楽や絵画とはもっとも遠い場所にいたと言ってもよかった。
泥と貧困、土埃と病でみたされた街では、喧騒だけが音楽だった。
怒声、嬌声、大人が拳をふりおろす音、ばくばくとうつだれかの心臓の早鐘。
けれどそういう世界にあって、それをとりわけ不幸だと思ったことはなかったし、ぬけだそうともがいたこともなかった。他のこどもたちがそうしたようには。
お客に微笑みかければ、宝石や毛皮だってかんたんに手にはいった。財をなげうつことをなんともないようにふるまうことで、掌中の富を味わおうとする系統の人間はいくらでもいたから。
彼らのおこぼれに預かることを同僚の少年たちは恥だといってきらったけれど、じぶんにはそうはおもえなかった。からだをひととき明け渡せばすくなくとも飢えることはないし、むしろ人に媚びるのに都合のよい見目に生まれたことには感謝しているくらいだった。
対価をパンや水のためにではなく、コルセットやガウンや装身具のためにつかうとき、からだそのものがクローゼットになったみたいで悪い気はしなかった。
運が良かったのだ。ほかの少年たちのなかで燃えるあらゆる情や熱、憎悪や悲哀といったものは、もう(あるいははじめから)そこになかった。可も不可もない。すべて心を素通りしていった。みずからの境遇や大人や特定のだれかを嫌悪する気もおきなかった。じぶんを最良にみせる口振りやふるまい、表情は自然と身につき、そしてーー正直なところ、楽しんでもいたと思う。この薄情が博愛や温和といった評価を得ることを。
それが自己防衛、つまるところ環境に最適化される過程でなにかを失い、あるいは得た結果なのか、それとも失ったのでも得たのでもなく、生まれたときからそうだったのか、よくわからない。
少なくとも言えることは、ただそこに居続けていれば、音楽の世界に触れることはなかったということだけだ。物質的な富の象徴ならばいくつか譲り受けたけれど、目に見えないもの、音楽を、あのせまい〈寄宿舎〉の部屋のなかで奏でる者はいなかった。
音楽というものにーーやかましい叫びやへたな唄ではない、洗練された〈音楽〉と呼べるものに触れたのは、篤志家に掬い上げられてからのことだった。
養父は生まれついての資産家だった。あらゆるものに執着せず、大らかで、吝嗇とはついぞ縁がなかった。父親から継いだという事業ですばらしい手腕をふるい、そのくせそれが当然の仕事だと言ったふうで、驕ることはけしてなかった。富や名声への野心がその顔にあらわれたこともなかった。彼にとっては、はじめからそれらは自分の一部であり、追い求めるものですらなかったのだろう。
そういうわけで、彼は血の繋がらない子どもにも、望むなら教養や芸術にかんして学ぶ機会としかるべき教師とを与えることを躊躇しなかった。かといって成り上がりが子息たちにするように、彼らの技術には到底不釣り合いな第一線の人間を呼びつけ、ままごとのような手ほどきさせることもなかった。
その道に身を置かないかぎりああいうのは分不相応で、金持ちの道楽につきあわされるのはかれらが不憫だからと笑った。
じぶんのためのものなら、自由であればあるほどいいのだと。
それから彼はピアノを自ら弾いてくれたが、すらりと弾きとおされた、衒いも技巧もない音が、かえってすがすがしかった。
つまり、教師というのはまぎれもない彼自身だった。
だから、俺が知っているのはじぶんのための音楽だけだ。
だれに聴かせるものでもない、ただみずからの胸の中、ひろいホールに反響させて、なにがかえってくるのかを待つだけのものだった。
じつのところ、いくら弾いてもいまだに掴めたものはなかったけれど。
続けているのはかんたんな理由だった。辞めるきっかけもまたないというだけで。
指の運びはほとんど歌にすれば棒読みだ。どんな感情を込めるべきなのかわからない。胸のなかは凪いでいて、載せる想い出もないのだ。
それをさがすために鍵盤のまえにすわるはずなのに。
ピアノとはまたことなり、クラヴサンの音色にはそれほど強弱がつかない。だからどこかじぶんにしっくり馴染むような、そんな気さえした。
その音色は厳かではあるけれど、沈むようなふかい静謐ではなく、かるがるとした身のこなし、こどもめいた溌剌さに、品のよい燕尾服、あそびを弁えた飄々としたたたずまいといったイメージを呼び起こさせた。
即興ができるわけではない。指先におぼえのある曲を思い出し思い出し演いていると、ふと背後から白いものがかすめた。
それはほそい腕だった。
かんたんに折れてしまいそうなちいさな指が、まるで音楽の文脈を無視して鍵をたたいた。魚が水のうえを飛び跳ねるようで、クラヴサンはいまや騒がしい海だった。あるいはバレエの舞台みたいに指はあちこちかろやかにおどってみせた。
ほんとうにでたらめな、意味のない音の群れは、たぶん耳を塞ぐほどひどいものだったが、どうしてか心地よいと感じられた。
願いを込めて緻密に積み上げられてきた音楽の歴史、ひとの文化そのものの、そのすべてをくずしてゆくきまぐれの暴虐がそこにあった。
すべからく、蹂躙されている。
そのうつくしさ。
ほそい指はひとときだけ旋律を追いかけようとして、けれどまたすぐにはなれて奔放にあそびはじめる。
「おまえの指はいつもひらひらして、蝶か蛾みたい」
そうしてちいさな指のあるじはーー少女はけらけらと笑った。
その唇は、噛み癖のためにいつも血で濡れていた。直線的に切り揃えられた白い髪は俯いたためにいまは垂れて、その奥からはぎらついた硝子みたいな瞳が覗いている。
「やあ、来たの」
その目を、まっすぐに見つめかえした。
そうすると暴力のあるじはふっと視線をはずして、こんどはまるでもう興味がないみたいに「偶然だよ」と吐き捨てて、指はするりと鍵からはなれていった。
それでも音は飴のように延び、クラヴサンのほうが名残を惜しんでむずかっているような錯覚をおぼえた。自身を規定する枷をもっとこわされたがっているかのようだと思った。
少女が顔をそらすとき、羽織っただけの着物がほそい肩からくずれおちたのを、それさえ計算されつくした事象のようにおもえた。
「……教えようか、なにか」
鍵盤にむかったまま声をかける。
「なにかって、なに」
「音楽。そうだな、バイエルとか」
「バイエル?」
「かんたんなものをいくつかね。練習すれば君でも弾けるよ」
たしかに一瞬、まとう空気に好奇が宿ったのを感じた。
それを、ほとんど肯定だと思ったーー少女は口を噤んだけれど。
視線を伏せ、鍵盤にふたたび指をおこうとすると、
その手首が掴まれていた。
爪をたてるみたいに、無遠慮に。
「いらない」。
少女の声がきっぱりと告げる。そのからだのすべてで棘を放つみたいだった。
たぶん、わざと。
迷いを、その隙すらを葬るために。
「……どうして?」
背後から腕を捕らえられたまま仰ぎ見る。円天井は気の遠くなるほどたかくそびえ、その頂点からは幾本もの柱が円周上へ降りていた。向こう側は黒く塗り込められた夜なのに、いったいどこから光が落ちているのだろう。
それを背中からまともに受けて、覗きこむ少女の輪郭はくっきりと縁どられていた。
絵画にえがかれた皓皓たる光輪(アウレオラ)を、はじめてこの目で見た気がする。
声だけが雨粒のように落ちてくる。
「わすれるから。どうせ」。
ーー嘘だ、と。
嘘だとわかった。わかっていた。お互いに。
どうしてなんて、我ながら白々しいことを聞いたものだ。
そんな理由じゃない、ほんとうは。
この子どもは、じぶんが求められたすがたを理解しているのだ。
白痴の無垢、無辜の暴君。
文化からみはなされた獣。
……何かを手に入れたいと思ったことはこれまで幾度ともなかった。胸は鞣されたようにいつも静かで、それを哀しんだことさえいちどもなかったのだ。見知った少年の命が「不運な事故で」お客にうばわれたときも、母親のまなざしのなかにじぶんはいないのだと気づいた瞬間も、口いっぱいにひろがる白濁の苦味を咽喉へおしやったときも、まるですべては膜をいちまい隔てた向こう側のできごとだった。
だからこそこの執着はーー少女のために湧き上がる嗜虐と傍観のあらそいは、手放してはならないものだった。
唯一いま胸に熾る炎のゆらめきが、じぶんをようやく人たらしめたのだと強く実感していた。
とてもいとおしく思えたのだ。
少女によって引き起こされる執着と熱情をこそ。
被虐と征服、蹂躙と内寵をすべて綯い交ぜにした鮮烈な衝動が背中をはしってゆくその瞬間の感覚をこそ、少女とともにピンで留めておきたいのだ。標本のように。
手を伸ばす。少女の頬に触れる。死体のようなつめたさだった。青白く硬質なようにみえるのに、掌に感じる感触はやわいのがふしぎだった。
「やだ」
「どうして?」
「石の床はつめたいもの」
くすくすと嗤った。
この子どもは、ちょっとないくらい、敏い。
重要なのはほんとうに無垢なだけの稚児ではなく、どこかで演じているということだ。
心まで手に入れたら、この熾はかんたんにきえてしまうことを、飽いてしまうことを、うすうすこの子は気づいているんだろう。だからすべてを頑是ない児戯にかえようとする。それがほんとうにそうではないとわかっていても。
これからなにをするのか、なにをされるのか、知っているのだ。
その唇をなぞってみせると、指先にあざやかな血の色が滲んだ。
敵意と挑発とあまやかな期待とを内包してかがやく少女の瞳に、この目の赤が、硝子扉のむこうにしまわれた宝石めいてひっそりと閉じ込められていた。
「……僕は」
弛緩と浅い呼吸のなかで、少女の唇がうごく気配がした。
「僕はいま正気なのかな。それとももうずっとおかしいままなのかな。」
「……どっちだと思うの?」
「わからない。でも、いいよ。どっちだっていい。
どうせわすれるんだ。どんないまもばらばらになっていくんだ。次に目がさめるときも、たぶん僕は、これがいつのことなのか覚えてないもの。僕にはととのえられた旋律なんかない。
ねえ、僕はね、音楽というものを、それを……」
それを。
その続きを、少女は告げなかった。くらい夜のむこうに追いやり、そこへずっととどまらせるようだった。
いったいどのくらいあるんだろう、と思った。
このほそくつめたいからだのなかに、星々みたいに縫いとめられた言葉たちは。
たぶん、教えてほしかったんだろう。音楽を。だけどあのとき口を噤んだのは、ふたりの、二重奏のためだ。完璧に重ねあっては成り立たないもののためだ。
声にしなかったその続きが、だけど聞こえた気がした。
羨ましいと思ったんだ、と。
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