夢の中でばらばらにした蝶に追われる夢をみた朝、まぼろしのなかのいきものに意識や痛覚はあるのだろうかと思った。あの蝶は痛がったろうか。うらんだろうか。だったら僕だってだれかのまぼろしの産物なのかもしれない。だれかの夢のなかの、本のなかの、あるいは空想のなかの有機体。主役にだって認識されず、脇役にだってなれないほどの、眠り続ける舞台の名前のないひとりかもしれない。痛みや意識があるのは実在するということの証明になんの意味ももたない、とはじめてきょう僕は知る。ここにいる僕、だけどこことはどこだ。それさえたしかじゃない。

 ねえ、僕、夢の中のいきものかもしれないよ。そういったらかれはわらった。とりあえずナイフかくすのやめてからそういうこと言おうか。初めてきづいた。ああ、そのきずはぼくがつくったんだ。

 

 

 

エフェメラの消息

 

 

 

 

「いたかった?」

「なにが、」

「それ」

 かれの腹のあたりに巻かれた包帯はきのうの、僕の凶行によるものだそうだ。

 よくおぼえていない。だけれどきっとその体温まで全部うばうつもりでやったのではないだろうし、図ってやったのでもないだろう。突発的なあそびに似たもの。でも急所ははずしている。どんなになったってさいごにはどうせこのひとを殺せない。おそれにちかい、たぶん意識じゃない、もっと深い領域で。

「痛くない奴がいると思う」

「おまえならなんとかなるって思ったんだろ、僕はしらない」

 俺をなんだと思ってるんだろうねきみは、と大げさに肩を竦めるのが、背けた視界の端に見えた。

 かれは糾弾もしなければ糺しもしない。

 ただしい方へみちびかない。

「避ければよかったんだよ。のろまなのが悪い」

「あんまり突然だったからね」

「嘘だな。どうせ逃げなかった」

「どうしてそう言えるの」

「どうしてって、おまえのことなら僕わかるよ」

「こどもみたいな論理。嫌いじゃないな」

「ばかにするな」

「はいはい、すっかり別人だね。きのうは素直だったのに」

 いわく、

 僕はけらけら笑う。ころころくすくす笑う。音階なんかなくしちゃったオルゴールみたいに螺子をなくしたおもちゃみたいに調子っぱずれに。抱きつくとき、花が咲いたみたいに、この世界のもうどこにも残っていない純粋さで笑う(でもそういうときその手にはかならず凶器)。だけどかわりに言葉をわすれる。代償のように喋らなくなる。

 そんなふうに言うくせ、このひとだって僕を調律しない。糺さない。おかしいのはお前だってそう、僕だけのせいじゃない。

 そのきずをつくったのは、僕だけじゃない。

「きょうはんしゃ、だろ」

「へえ、そんな言葉をどこでおぼえたの」

「おまえが使ったことがあるんだろ。

 僕のことばはぜんぶおまえのものだもの」

 このひとのほか、僕は知らない。

 誰も知らない。

 プラネタの群青に星が拱く箱庭のなかで生きている。

   おまえと僕のほか、すべて、すべて、にせもの。

「それはたしかにそうだーー痛た、」

 彼がふいに包帯の巻かれた場所を庇う。きずのないはずの僕のどこか、も、どうしてかちくりといたい。不愉快だった。すこし。罪悪感?ちがう。だって、おぼえていない。かれがどんな顔をしてそのきずを受け容れたかを、僕は知らない。いつかきみは言ったっけ、エフェメラ、果敢無くしか存在しえないもののなまえ。きのうの僕なんか僕じゃない。きょうの記憶をたしかに保てないならあしたの僕だって僕じゃない。きょうの僕はあしたの僕にころされるのもおなじこと、大切になんかしないで、受け容れないで、そんなもの、そんなものは、僕じゃない。

 そうだ、

 僕がほんとうにきみをしちゃって、それであしたなんにもおぼえていなかったら、ざまあみろって、あしたの、僕に言える?、そうか。そういうことだって、できるんだ。できるんだ。できる、かな。すこし、こわい、けれど。

 ねえ、こういうこと、僕は考えるんだよ、旬蘭。

「もし僕が加減をまちがってそれで本当にしんでしまったらどうするの」

「どうするって、もう死んでいるのにかい?」

「違う。そういうことじゃないってわかってるだろ」

「加減をまちがってしんじゃったら、ね。じゃ、それはまちがいじゃないということじゃあないかな。」

「……わからない。何だって。」

「結果的にそれは運命だったということだよ。」

「わからない。むずかしい。わかるように話せ。」

「運命ってことばの定義のことだよ。未来を拘束するものじゃなくて、すべての結果を運命と呼ぶことができてしまえるんじゃあないかな、って、そういうおはなし。つまり運命は、横たわるだけで、そうあるように錯覚させるだけで、何をも縛ってなんかいない。なんだって運命になり得るさ。ーーわかる?」

 

 きみはほんとうに、

 

 歌うみたいに流暢に朗らかに尊いほどに純粋におわりかたを呈示して、

 

 僕を嬲るね。

 

 ねえ君、それはいったいなんてべんりな言葉なの。僕にいつか飽いたって、君はそれを運命だというの。抗おうともしないの。さいしょからそのつもりなの。うつくしい手法。罪なんか、ない。この世界のどこにもない。きみにとってはそんなもの意味をもたない。こどもみたいに無垢にけがれない微笑みで、いつだって僕をおいてゆけるね。

 たしかなものなんてなにもない。

 ほんとうに生きていたって、これが夢じゃなくたって、だからって、たしかなものは、なにも。

 知ってたはずだろ、僕のばか。

「……ね、僕夢の中のいきものかもしれないよ。」

「うん?、なんのはなし?」

「さいしょのはなし」

「さいしょの?また話が飛んだ?」

「飛んでない。もどっただけ」

「ああ、そういえばきみそういうこと、言おうとしていたっけ」

 聞かせてよ、とかれは言う。背凭れへ預けるとき、宝石のような赤い目が伏せられて描かれる睫毛の長い弧がみごとだと思った。どんな話しも馬鹿にしたりしない。あらゆる可能性を否定しない。誰も責めないし救わない。やさしい?つめたい?、それさえわからせないほど、きっと生きてゆくのが上手なんだろう。

 

 夢の話を、した。

 

 夢の中で蝶をばらばらにして、それで、次の日の夢の中で、追いかけられたってこと。夢の中のいきものに、意識や痛みがたとえばあったら、いまここにいる僕だって夢のなかのいきものかもしれない、ってこと。

 僕の言葉はきっと拙かった。

 それでも、すべてを察して、かれは言う。

「こわくなったの?」

 だからここへ来たの。

 きのうみたいに、また確かめにきたの。その、ナイフ。

 かれは僕のことは全部知っている。おそれているもの。痣のありか。操縦のしかた。きずつけかた。なんだって知っている。ほんとうは救い方だって、知っている。だけどなんだってできるこのひとにもそれだけは叶えられない。神様じゃなくて彼もまた奇跡を待っているひとりだから。僕をこわしてなんてくれない。本当の意味で抱きしめてなんて、くれない。

「痛みが実在の証明にならないのなら、夢の中のいきものかもしれないのは君だけじゃない」。

    それをたしかめたいんだね、と彼が言う。

 だいじょうぶ、おおきな掌が僕の頬をしろい髪ごと包む。きずのことを彼は言っている。僕がつけてきみが受け容れたそのきずも、やっぱりなんの証明にもなりはしないんだろう。

 だけど、ね。

「それとも、また傷つけてみる?痛いのは嫌だけど、君の気が収まるのなら、いいよ」

 きょうはんしゃ、の、笑み。

 だけどね。

「ううん。もういいんだ。」

 もっとこわいものを、僕はしってた。

 さよならの予感。

 果敢無くしか存在しえないもの、エフェメラ、それは僕たちの現在にも与えられる名前だろうか。

「夢だって、夢のほうが、ずっといい。ずっとまし。ここがきみのまぼろしならそれでいい。」

「……それは、甘えてる?それとも拗ねている?」

「そういうふうに、みえるの」

「見えなくもないかな」

「だったら馬鹿だ」

 もっと深刻そうにしろだなんて言えなかった。

 だって、きみにとっては、本当にそうじゃない。

 

 

     夢の中でばらばらにした蝶に追われる夢をみた朝、まぼろしのなかのいきものに意識や痛覚はあるのだろうかと思った。あの蝶は痛がったろうか。うらんだろうか。だったら僕だってだれかのまぼろしの産物なのかもしれない。だれかの夢のなかの、本のなかの、あるいは空想のなかの有機体。主役にだって認識されず、脇役にだってなれないほどの、眠り続ける舞台の名前のないひとりかもしれない。

 だけど我儘を赦されるなら、住むんならきみのまぼろしがいい。

 閉じた瞼のした、宝石みたいな紅いひとみに閉じ込められた虚構なら、それでいい。